1週間水だけで断食しても世界の恵まれない子供達の気持ちはわからない

スピリチュアル

はじめての断食。それは、1週間水だけで過ごす断食だった。

人間には食が必要だ。必要な栄養素をとる必要がある。食事をすることで幸せな気分になる。1週間水だけで生活をして、なぜだかわからない。幸せな気分になった。理由はまったくわからない。

断食で幸福感をあじわって以来、断食をすることが習慣になった。数々の断食道場も訪ねた。断食道場に住んだこともあったし、自宅で断食をすることもあった。

断食をきっかけは精神修行だ。はじめこそ精神修行きっかけだったが、2回目以降は、ダイエット、健康増進を理由にした事もある。

断食をすることによって、断食をする様々な人に出会うことになった。断食をする人達の理由は様々。多くの理由が、ダイエット、健康増進、精神修行のため。

少数だが、「世界の恵まれない子供たちと、同じ気持ちになりたい」という理由で断食をする人がいる。

もしくは断食終了した後、「世界の恵まれない子供達の気持ちがわかった」という人もいる。

断食道場で断食する期間は、短くて1日、長くても1週間。1週間以上断食できる道場は少ない。たった、1週間たらずの短い時間で、世界のめぐまれない子供達の気持ちはわかるのだろうか。

断食をする人たちが言う「世界の恵まれない子供達」の定義。おそらく、まともに飲み食いできな子供達をさしているのだろう。断食をすることによって、「世界の恵まれない子供達の気持ちがわかった」というぐらいだから。

言い換えれば、世界の恵まれない子供達は、飢餓の人々ということになる。断食と飢餓はどう違うのだろうか。断食と飢餓の違いを考えた。

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断食と飢餓の違い

選択肢があるかないか

断食は、自分でやると決め、自分で期間を決め、自分の判断で食事を我慢する。

飢餓は、食べたくても食べれない。いつ食事ができるか、いつ飢餓が終わるかか、いつ自分が死ぬかもわからない。

飢餓の人が、自ら飢餓の世界で生きているわけではない。飢餓の人たちにとって断食とは、平和な世界にいる人間の贅沢な行いにしかならない。

何も食べず何をするか

断食は最低限のルールを守れば、一日寝ていても問題ない。

飢餓は、働かなければいけない。

成田山の新勝寺で1週間断食した時は、暇すぎて暇を潰すことが大変だった。飢餓の人はお腹がすいて動けなくても働き、その日暮らすだけのお金や食料を手に入れなければならない。命にかかわるからだ。

水は飲めるか飲めないか

断食は、水をしっかり飲める。

飢餓は、水すら飲めない人もいる。

どんな断食道場に行っても、食をやめることはできても、水を飲むことだけはやめさせない。水を飲まなければ、命に関わることを知っているからだ。飢餓の人は、まともに水を飲めない。泥水をすすってでも生きている人もいる。

住む場所はあるかないか

断食は、雨風しのげる家がある。

飢餓は、それすらない人がいる。

どんな断食道場でも、最低限の雨風をしのげるだけの場を提供してくれる。エアコン付きで快適な場所もある。飢餓の人は、家すらない。マンホールの中で眠るような子供もたくさんいる。

健康か健康でないか

断食は、健康な人が行う。

飢餓は、健康な人は少なく、病院すら行くことができない。

断食をするには、道場にもよるが、あらかじめ健康診断が必要。断食中に何か問題があれば、すぐに救急車がきて病院に運んでくれる。管理人もいるので、何かあった際の対応も問題ない。

飢餓の人はどうだろうか。健康診断を受ける機会もない。病院も行けない。見守ってくれる人すらいない。

平和と混乱

断食は、平和な場所で行うが。

飢餓は、政治が混乱していて紛争中の場合もある。

いつも安心で、死への不安がない中で行う断食。平和でなんの不自由もないから、断食ができる。飢餓の人がいる国は、政治がまともに動いていない紛争中の国が多い。そんな飢餓の人は、いつも不安で、死がいつでも身近にある。

断食と飢餓の違いについて、いろいろ考えてわかったことがある。一番の違いがわかった。

断食と飢餓の一番の違い

それを例えるなら、京都の中心街に建てる新築の家のようだ。京都では、古い町並みの美しさを保つため、一戸建てを建てるのであれば、景観に関するルールを守って建築する必要がある。

簡単に言ったら、京都の古い町並みにあう、京都らしい家しか建てることができない。

京都の中心街にに建てる、新築の家の内装はどうなっているだろうか。実は外観には厳しいルールがあるが、内装に関してはほとんど制限がない。洋室にしようが、和室にしようが、外観のルールを守れば問題なし。中身は最新の設備で、大理石だらけの、西洋のお城のようにしても問題はない。

断食と飢餓でも、お腹がすごい減っているという意味では同じだ。断食している人、飢餓の人たち、一番の違いは心の違いだ。心が違う。

日本に住む僕らは、平和を後ろ盾に生きている。どんな生き方をしても、飲み食い、住む場所に困ることはない。断食は平和の世界での贅沢でしかない。

飢餓の人は、今すぐそこにせまる死のために、必死に生きるしかない。未来への希望もない。考える時間もない。混乱した政治状態でただ生きているだけだ。

今飢餓の中にいる人に、満足な食料を与え、日本と同じぐらいの平和な環境を与えたとしても、飢餓の子供達の心が変わらなければ、ある種の心は飢餓状態のままだ。

心が飢餓のまま。日本という平和な国にいながら、食に溢れ、環境に恵まれながら、心は飢餓状態という人たちがいる。日本という平和な国にいながら心は飢餓のような人たち。

自分の未来が幸せになる姿を思い浮かぶことができない。今の自分がどんなに頑張っても、幸せになれないと思ってしまう。幸せになるのは自分以外のまわりだけ。心が飢餓のままで平和な国にすむとこんな人達になるかもしれない

飢餓の人々全てに、良い環境と、食料、水を、行き届けることは難しいかもしれない。でも。

「いま住んでいる国が、いつか平和になる」

未来の平和への希望、幸せの希望を持てる心があるのであれば、一見飢餓で不幸の中にいるようだが、その人の心は、内面から幸せになることを約束されているのではないか。

体、環境、心は、三位一体だ。互いに影響を与えあっている。
環境を良すれば、体と心が良くなる可能性がある。
体を良くして、環境と心が良くなる可能性がある。
心を良くして、体と環境が良くなる可能性がある。

心ひとつ良くすれば、体、環境がよくなる可能性がある、幸せになれる可能性がある。

僕は何度も断食を繰り返した。いくらお腹が減っても、「世界の恵まれない子どもたちの気持ちはわからなかった」これからもわかることはないだろう。

断食をして、「世界の恵まれない子どもたちの気持ちをわかりたい」という志を持っている人、それを否定することはない。

断食を何度もして、「世界の恵まれない子どもたちの気持ちはわからなかった」が、断食をして「世界の恵まれない人々を、幸せににするヒント」を得た気がする。

それが、断食をして得た幸せな気分の理由の一つもしれない。

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