その小さな本屋には、行列ができていた。
行列の最後尾に僕は立つと、店員と思しき女性が小走りに走ってくる。
「前の講座が押しているので、少しお待ちください」女性は名簿を確認すると先頭に戻る。
僕の背後に人が立った。女性はまた小走りに走り、背後の人に声をかけ、名簿を確認。流れる作業を繰り返す。
話題の本が発売された訳ではない。人気の作家のサイン会がある訳でもない。
街から外れた人通りが少ない小さな本屋。
池袋という本屋大激戦区で、大行列を作る理由は、ある講座を受講するためだ。僕もその参加者の一人として、行列に並んでいる。
この日、一つの疑問にぶつかった。講座内容に疑問があった訳ではない。その疑問は、講座が始まる前、行列が少しずつ進み始めた時に起きた。
行列の流れがスムーズではない。一人進んでは止まる。一人進んでは止まる。その繰り返し。階段を登り、入口手前で原因がわかった。
前に並んでいる人が、釣銭をもらっている。何かを購入たようだ。スムーズな流れを邪魔している原因だ。
店の中に入るとすぐにレジがある。レジ前に立つ女性から3つの選択を迫られた。「水」「コーラ」「ジンジャーエール」ただで貰えるわけではない。それぞれに料金という名札がついている。
迷わず水を選んだ。200円をレジの女性にわたす。レジの横には、駅弁の売り子のように、ペットボトルがつまったダンボールをもつ女性が立っていた。かなり重たいダンボールを持つ理由は、おそらく一番人気の水を、効率よくわたすための手段だろう。ダンボールの中から、一本のペットボトルの水を取った。
そのペットボトルの水は、コンビニ、スーパーで、見慣れたものではなかった。ペットボトルにラベルは貼られていなく、どこのメーカーで作っているか、どこで汲まれた水なのかも、なんの水なのかもわからない。
透明のペットボトルに水が入っている。ただそれだけだ。
空いた席に座り考えた。「なぜ、この水を購入したのだろうか?」
三つの選択肢の中から、水を選んだ理由は簡単だ。水が200円。コーラ、ジンジャーエールは410円。値段の差からの選択だ。
僕は水にこだわりがある。普段飲む水は、近所の井戸水を汲んで飲んでいる。家の水道水を飲むことは滅多にない。購入する水の銘柄も決めていて、その銘柄の水以外購入することはまずない。
水にこだわるのは、自分が住んでいる街の水を飲みたい、美味しい健康的な水を無料で飲みたい、塩素が得意ではないからだ。
もしコンビニに、ラベルのない200円の謎の水が置いてあったら、絶対に買うことはない。
絶対に購入するはずのない僕が、なんらかの理由で、飲み物(謎の水)を購入してしまった。僕だけではない。大多数の人が謎の水を買っていた。その理由はなんだろう。
そういえば、募集要項に「一人ワンオーダーを頂いております」と記載があったのを思い出した。
募集要項にあったとしても、あらかじめ講座の費用は支払いをしている。講座に申し込みをする承諾はしているが、ワンオーダーをする承諾はしていない。法的な拘束力などないはずだ。もちろん、こちらに断る権利もあった。
それにもかかわらず、当たり前のように、みんな購入をしている。
法的拘束力がないのだから「一人ワンオーダーをしてください」は、「できればワンオーダーしてください」というお願いということになる。
お願いはお願いだ。神様にお願いをしても、ほとんどの場合、お願いに対してなんの見返りもない。むしろ、ほぼ拒否だ。
これは、居酒屋のお通しと、同じようなものなのかもしれない。頼んでもないのに出てきて、食べたらいつの間にか料金取られている。本当は断れるし、支払う必要もないのに、知らない間に支払う必要のない支出をしている。
そして、一人が支払い出すと、みんなが同じように支払いをしだす。頭では疑問に思っていても、みんなが買っているから、自分もかってしまう。和をみださないためだろうか。
募集要項には、会及びコミュニティーの運営に支障をきたすと判断した場合、任意かつ一方的に退会していただく場合がございますとある。
水一本の拒否で、一方的な退会の可能性を想像する。
魅力的な講座を受講するチャンスを逃す訳には行かなかった。もちろん、ワンオーダー拒否したぐらいで、受講拒否されるようなことはないが、可能性はなくもない。
僕がラベルのない謎の水を購入した理由は、魅力的な講座に付随したお通し商法と、和を乱さないためにみんなにあわせる、拒否する力のない自分の落ち度、といったところか。
こんな拒否できない僕は、食肉加工工場に出荷された牛のようだ。生物であった牛が、流れ作業のように、ある時食肉になる。繰り返し、繰り返し、流れ作業で。牛は無抵抗のまま。
拒否できない人間は、だまって食肉になる牛と同じではないか。永遠に、時と金を搾取されつづける。
ある食肉加工工場のドキュメンタリー番組で、生物であった牛が、食肉になる瞬間を映像化していた。ベルトコンベアーに乗せられた牛が、食肉になる部屋の前で、そこで何が起きるか知らないはずなのに必死に抵抗する。通じない言葉と、自分が持っている、最後の力を振り絞って抵抗する。
たまたま、その牛だけが抵抗していたのかもしれない。同じ牛なら、無抵抗の牛より、結果が同じでも、僕は抵抗する牛でありたい。
不必要なものを拒否し、本当に必要なものを手に入れるため。
試しに水を飲んでみる。おそらく安く売っている輸入のあの水だろう。
水への疑問が解消した僕は、席に座り講座がはじまるのをまっていた。最初は空いていた席もだんだん埋まっていく。講座の定員は40人だったと思う。講座の始まる前には、正確に数えていないが、60人近くいたのではないか。
時間になり講師があらわれる。スタッフの「何飲みますか?」の質問に対して、「コーラ」と答える。豪快に飲み出しこう切り出した。「ABCユニットは誰でもできる」天狼院ライティングゼミがはじまった。
天狼院ライティングゼミを登校拒否
天狼院のライティングゼミはおもしろい。講座はためになり、講師の三浦さんのリズムの良い会話は、聞いていて楽しくなっていく。人生で落ち込んだ時に、三浦さんの講座を聞いたら元気がでそうだ。応援歌みたいな人だなと思った。
でも、だんだん三浦さんの会話が頭に入らなくなってくる。なぜだろうと思った。
店の面積はあまり大きくない。12坪ぐらいだろうか。本と本の間のスペースに、店員さんを除いた約60人が、両隣密着しながら講義を聞いている。
季節は春。とはいえ外はまだ寒い。人と人が密着している状態で過ごしていると。どんどん熱くなってくる。
その上、狭い部屋に人がたくさんいるせいなのか、どんどん空気がわるくなってきて、頭がくらくらし、体調が悪くなってきた。
「帰りたい」とも思った。でも、ライティングゼミの講義がおもしろい。帰りたくはなかった。無理して講義を聞き続けたが、後半はほとんど頭に入っていなかった。
講座が終わって、帰り道に思った「もう、辞めよう」
水のこと、体調悪い中無理やり講義を受けて(自分のせいだが)、ライティングゼミを続ける気力がなくなってしまった。
僕は天狼院ライティングゼミを、登校拒否することに決めた。
天狼院ライティングゼミは人生で3本指に入る習い事
天狼院ライティングゼミを、登校拒否することを決めた。
もともと天狼院の講座のイメージは、席と席の間隔が空いた、広いテーブルの席にすわり、注文したカップに入ったホットラテを、優雅に足を組ながら飲み、テーブルにおいたマックブックエアーを「パカパカ」しながら、講座を受けるイメージだった。
期待とは往々にして裏切られるもので、あまり良いイメージを頂いていると、イメージとギャップの差に苦しむ。
僕のイメージは、あながち間違っていなかったともいえる。なぜなら、池袋の天狼院に映し出されたスクリーンには、京都の天狼院が映っていた。京都の天狼院は、まさにイメージそのものだった。脳内をスキャンして、スクリーンに貼り付けられたような気持ちになった。
天狼院登校拒否中、天狼院のサイトをチェックしていた。ふと思い出した「オンライン学習があった」
天狼院の講座のほとんどは、店舗で行われた講座を録画し、そのままオンライン学習として動画を提供している。そのため、1度受けた講座を期間内であれば、なんどでも見ることが可能なのだ。追加料金も必要はない。
初回の授業をオンラインで再受講した。動画で頭に入ってこなかった内容を復習する。僕は決めた。このままオンライン学習を続けようと。
これなら余計な支出をすることもなく、環境に左右されることもない。ストレスフリーだ。
オンライン学習を続けた。ライティングゼミは宿題がある。毎週2000字ぐらいの文章を提出し、添削をしてもらい、オッケーが出れば、天狼院のサイトにのるのだ。
その宿題も、SNS上にあげて、添削結果もSNSのコメントでもらうため、わざわざ足を運ぶ必要も、なにか郵送する必要はない。ネット環境と機器は必要になるが。
その後、オンライン学習を続け、宿題も8割ぐらいは出し、天狼院のサイトにも掲載され、無事学習を終えることができた。
天狼院のライティングゼミは素晴らしいものだった。人生で行ってよかった習い事ランキング、ベスト3に入るぐらいだ。
反面、僕は天狼院ライティングゼミを辞めようとした。登校拒否した人間だ。オンライン学習がなかったら、こんな素晴らしい講座を受けることはできなかった。
天狼院でたまたまオンライン講座を併設していたから良かった。でも、もし僕が学生で、小学生、中学生、または高校生だったとしたら。学校に行って、いじめ、環境、人間関係、様々な理由で、行くことを拒否したら。
家庭環境によっては、学校とは別に、塾、家庭教師、フリースクール、などを利用して、勉強環境を整えることもできるかもしれない。でも、それをできない家庭環境であったら。
教育を受けることのできない子供を、一人増やしてしまうことになる。
もし天狼院と同じように、オンライン学習ができる環境があったら話は違う。
天狼院のようなオンライン学習ができる理想の未来を考えてみた。
天狼院のオンライン学習をして思った未来の学校教育
全ての授業を録画をして、ネット上で見ることができるようにし、その学校に所属している学生なら、オンライン学習を希望する生徒だけではなく、誰でも見れるようにする。
小学3年生なら、3年生の授業しか見れないのではなく、その上の4年生、5年生、すべて見れるようにし、予習をできるようにする。勉強ができる子供に、どんどん先の勉強をしてもらうためだ。
小学校6年生までほとんど授業をしてこなかった生徒が、小学校4年生からやりなおして、授業を振り返るという利用方法も考えられる。
わからないまま学年が進んで、基礎ができず、わからない授業を受けて混乱するより、一度振り返って、勉強についてきてもらうようにするためだ。
全ての授業は時間を問わず、いつでも見れるようにし、先生も別の先生の授業を見れる。
先生たちは毎日、当たり前のように授業を行っているが、その授業は良いコンテンツになっているはずだ。オンラインで授業を開放すれば、だれだれの先生の授業はすばらしいと、プレビュー数が上がっていき、その先生の授業を他校に販売することなども考えられる。
もし、登校拒否になったとしても、オンラインでの授業をすれば、単位も与えられるようにして、テストは選択式ならAIにまかせ、記述式の問題は人間が担当できるようにする。
複数の学校のテストの回答や、授業の質問、生活の悩みを解決する、専門の施設を用意して、コスト削減をする。
学校で先生をしている人で、うつ病や心の病を持つ人が多い。そういった人たちを、学校から離して、テストの回答専門にしたり、オンラインの回答専用にするのもよいと思う。
いじめや、登校拒否になると、その学校にいる生徒や先生と、全く顔を合わせたくないと思ったりする。でも、通っている学校とは別の、専門のオンライン施設の他人とであれば、コミュニケーションを取ることができるかもしれない。
もちろん問題はある。体育などどうするか。オンライン専用で、ヨガの授業をやったりするのも面白い。
コミュニケーション能力などどうするか。オンラインの授業はいつでもできる。空いた時間になにか、別の自分らしい生き方をできる時間を探せばよい。
実際にやることになったら問題はたくさんあると思う。
問題があるとしても、オンライン学習を学校に取り入れて、教育を受けることができない子供を増やすのではなく、全ての子供にチャンスを与えるべきではないだろうか。
いじめ登校拒否になったこどもを、どうやって学校にもどすのかではなく、今の環境でどうやって勉強を続けてもらうかを考えることが重要なのではないか。
天狼院は、遠い先ではない。
少し先の理想的な学校教育を想像させる、魅力ある書店だった。
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