何度も言い聞かされた言葉がある。
親がしつけのために言い聞かせたのではない。教師が道徳教育のために言い聞かせたのでもない。
僕の前に現れる、出逢う人、出逢う人が、同じ言葉を言うのだ。旅先で出会った人、人生を変えるきっかけをつくった師にあたる人、指導者、ほかにも数え切れないほど。
たまたま、みんな繋がりがあったわけではない。同じ思想を持っていたわけではない。みんながみんな、見知らぬ他人ばかりだ。それにもかかわらず同じ言葉を伝えてくる。見た目は違うけど、中身は同じ心を持っているのではないかと思うほどに。
その言葉は、「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」
その人の住む地域によって言い回しが違うこともある。恩送りなど別の言葉だが同じような意味をもつ言葉を言う人もいた。
いろいろな言い回し、言葉を聞いたが、直感的にストレートに意味が伝わる「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」が一番心に響く好きな言葉だ。
その言葉を言う人に共通点があるとしたら、僕になんらかの無償の施しをしてくれたこと。恩を施すようなことをしてくれた人。
出逢う人、出逢う人、同じ言葉を言ってくる。どんな理由で「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」と言うのだろうか。
もしかしたら、無償の施しにたいする返礼をされるのが、めんどうだったから言った言葉なのかもしれない。
でも、違う気がする。
ある人は、「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」の言葉を言った後にこう付け加えて言った。
「俺もされたからさ」満面の笑顔で言ってくれた。
きっと、僕と同じようにたくさんの無償の施しを受けたのだろう。もしかしたら同じように、「受けた恩はこれから出逢う人にかえしなさい」とも言われたのかもしれない。
この人が言ってくれた「俺もされたからさ」の言葉を聞いて思ったことがある。恩というのは重しと同じようなものだ。
たくさんの無償の施しを受けて、恩という名の見えない重しを背負っていく。施されれば施されるほど、重しは積み重なり重くなる。だんだん背負っているのも辛くなってくる。
重く辛くなってきた時、困っている人、助力を求めている人がいたらこれはラッキーと、背負っていた恩という名の重しを無償で施し渡していく。
そして、「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」という言葉を伝える。十分すぎるぐらい恩を受けたから。もう重しを背負いたくないから。与えるだけの一方通行で十分だから。
施した人は重みを開放した喜びで、満面の笑顔になる。背負うものがなくなるまで、見返りを気にせず無償で施すことを繰り返していく。
この重しはただの重しではない。
たくさんの恩という名の重しを背負って、どんどん無償の施しを繰り返し、恩を渡していくことで、人間として心が成長していく。
人間は与えられた恩を、与えていくことで成長していくものだ。
漬物をする時、漬物石を乗せることによって旨味がますように。この重しは人を育てる。
この恩という重しは、人間が生まれてから、ずっと同じだけの量しかないのかもしれない。同じ量でも、どんどん次の世代に渡していくことで、今も昔も同じ量を保っている。
人を育てながら。いい具合に人を完全に潰さない程度の重しで。
神様が人を育てるために送った贈り物、人を育てるための法則なのかもしれない。
たくさんの人に「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」と言われた。その言葉を言う人は、たくさんの恩を受けた人で間違いない。もう返してほしい恩はないぐらい恩を受けた人。みんな満面の笑顔で無償の施しをしてくれた。
こんな話をよく聞く。
「愛情をたくさん与えてく育ててくれたのに、何のお返しもできずに亡くなってしまった」「たくさんお恩があるのに、なんのお返しもできなかった」
僕にも経験がある。人生をかえるきっかけになった人は、お礼を言いたかったがいつの間にか行方不明になってしまった。
恩を返したいときに相手がいないという話はよく聞く。恩を返そうとして、返すあてがなくなってしまうと、受けた恩で自分が潰れてしまいそうになることがある。
恩を施してくれた人は、与えられたことを与えただけだと思う。
恩を与えてくれた人は、もう十分だから、恩はこれから出逢う人に返せばいいと言ってくれると思う。
なぜなら、恩を施せる人は、たくさんの恩を受けた人だから。
自分がしてもらった恩に潰れる前に、どんどん与えられたものを誰かに返していけばいい。これからはあなたが施していけば良い。
「受けた恩はこれから出逢う誰かにかえしなさい」
あなたがそうされたのだから。
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