宿泊座禅を終えた帰り道、総持寺の山門を通り誓った。「また、来年も総持寺という名の天国で座禅しよう」
「また、来てしまった」総持寺の山門を見上げながら、一人心の中でつぶやいた。
令和元年8月22日。神奈川県鶴見にある総持寺。ここで2泊3日で宿泊参禅会(夏季参禅講座)が行われる。
早く到着しすぎたため周辺を散歩し、山門の下で雨宿りをしていた。見上げると首が痛くなるぐらい大きな山門は、鉄筋コンクリート造では日本一だ。
15年以上前だったと思う。同じように総持寺の山門をくぐった。前にも一度、夏季参禅講座に参加したことがあるのだ。当時のことを思い出していた。
冷房のない100畳ぐらいの大広間。50人以上の男がせんべい布団で雑魚寝の共同生活。食事作法が厳しく、お坊さんと同じように一汁一菜の食事。娯楽などなく、只ひたすら座禅に打ち込む。一部の人は作務として、総持寺の長い廊下を必死に雑巾がけをした。厳しい生活をして厳しいなりの充実感はあった。
あまり良い思い出があるとは言えない総持寺。その山門をまたくぐろうと考えたのは、「苦しいけど、充実もした」という相反した結果が理由だ。苦しくて充実していなかったら、また来ようなど思わない。
10代からかれこれ20年近く座禅をやっている。昔は、どうしようもない自分に変化が欲しくて修行や座禅をした。今は、たまに宿泊座禅をして体と心を整えることが理由になっている。縁あって総持寺のサイトで夏季参禅講座のページをみつけたのも理由の一つ。
古い総持寺の修行の記憶を呼び起こし、若干の恐れをなしながら受付に向かった。
「○○さんの部屋は、30☓号室です」料金を支払い若い僧侶に言われた言葉に違和感を覚えた。
「大広間ではないの?」
50人以上の男の、いびき、はぎしり、寝言のオーケストラ。その真ん中で寝た思い出は、新しい思い出で上書きされることはなかった。
宿坊の3階にある部屋を入った瞬間、輝きで目がくらんだ。ほこり一つない明るい部屋。畳六畳、十畳の和室が一つづつ。玄関は広々としており、部屋に洗面所トイレも設置されている。共同ではないことに驚いた。部屋の大きな窓からは、山門の側面が見える。抜群に景色も良い。
まさか、エアコンまでついていた。すでに冷房が入っていて寒いぐらいだ。さすがに個室ではなかった。相部屋で男性7人の共同生活。部屋が広いので、一人一人のスペースは十分にある。
よく見たらテーブルの上には、お茶とお菓子が。「お菓子食べていいの!」三度の飯よりお菓子が好きな僕は驚きを隠せない。
もはや、ちょっと奮発してやってきた、観光名所から少し離れた山間にある隠れた名旅館である。
部屋の外の廊下に、ベンチも設置されている。すこし離れたところに自動販売機もあり、なんと購入して飲んでもよいとのこと。共同のトイレもあり、トイレなのに汚れ一つない。裸足でトイレに行ったとしても気にならないぐらいキレイだ。
袴を貸してくれて、就寝用の浴衣まで用意されている。完璧すぎるぐらい完璧な環境。電源コンセントもあり、早速スマートフォンを充電している人もいた。
若い僧侶の案内で大広間に案内された。坐禅会の説明と挨拶のためだ。エレベーターで。
「エレベーターあるよ!」もう、なにもかも驚きである。
大広間には、30〜40人ぐらいの男女が集まっていた。女性が3〜4割いるのに驚いた。こういった修行の集まりに女性が参加することは少ない。
年齢層は30代後半〜70歳ぐらい。ほとんどが50代以上の人。10代、20代の人はいなかった。
挨拶の後、初心者むけの座禅の指導がある。しっかり指導してくれるため、座禅経験がなくても宿泊参禅参加できる。現に一人座禅初体験の人がいた。
夏季参禅講座という名前をつけるだけあって、座禅だけではなく、仏教に関する講座がスケジュールに組まれている。
相承をテーマに全部で4回。
相承とは代々受け継がれてきたもの。講座では総持寺の歴史にまつわる内容が多かった。すべてを紹介することはできないので、全講座の中で印象に残った言葉を抜粋しておく。
伝光録白字弁
一つの火をロウソクからロウソクに、更に他のロウソクに移し、またその次に移していく。何千回とロウソクに移したとしても、最初の火とまったく変わることない。お釈迦さんから何代も何代も変わらぬ火がいまに伝わっている。
そのロウソクの火自体が重要なのではなく、そのロウソクの火から発する光が重要なのである。
太陽が隠れて夜になったとしても、太陽の光を感じることも、見ることがなくなっても、太陽はいつでも輝いているように、その光はいつでもどこでもあり、あまねく一切を照らしている。
完全に個人的意訳。仏教が伝えようとしていることを、短い文でよく表現してる。
講座の後はお待ちかねの食事。前回、総持寺で修行した時は、応量器という器を使って食事をした。応量器とは僧侶が使う食事の器の名称。大中小の器があり、大きい器に、中くらいの器、小さい器を重ねると、大きい器一つ分の大きさにまとまる。
この器は、修行に入ってから一切水道で洗うことはない。食事の後、お茶を器に入れ、箸でたくわんをつかみ、器用に磨いていくのだ。
食事を用意し、食べて、磨いて、しまう。作法がきっちりしており、前は厳しく指導された。
今回の総持寺の食事は応量器を使うことはなかった。とても応量器には入り切らない色とりどりのおかず。味はあっさりしていて飽きもこない。こってりした肉料理が好きな人もいる。そんな人のためになのか、目を疑うようなおかずがあった。
「からあげ!」心の中でさけんだ。もちろん肉料理ではない。俗に言うもどき料理だ。からあげと同じ、いやそれ以上の味だった。
食事に面倒な作法はなかった。食事の前、箸袋の裏に書いてある五観の偈というお経を姿勢正してみんなで唱え、ご飯の入ったお椀を目の高さに上げてから食事を始める。その後は、普通に食事をとる。
一番偉い人に食事のスピードに合わせることもない。取るべき食事の順番もない。残すこともできる。おかわりをすることはできなかった。
食事中はみんな無言で食べた。もしかしたら、本当は談笑しながら食べてよかったのではないかと今では思う。勝手に空気を読んで無言で食べていただけで。
全員が食べ終わったら、普回向というお経を唱えてごちそうさまの挨拶。
食事の際、一枚だけたくわんを残しす。ご飯椀とお味噌汁が入った椀だけ、お茶とたくわんで磨く。そのほかのおかずが入った小鉢は、順番に重ねて端に寄せるだけ。
初日だけ豪勢な精進料理で、後は質素ということはない。最初から最後まで全力だ。毎日、豪勢で華やかな精進料理が続いた。
いよいよメインディッシュの座禅だ。今の所つらい思いはまったくない。それどころか快適で楽しいことばかり。
坐禅は坐禅堂の中の単と呼ばれるスペースで行う。腰ぐらいの高さの台の上に畳が引いてある。その上に、座禅をする際、姿勢を安定させるための坐布と呼ばれるクッションがある。
あらかじめ習った作法にのっとり、坐布の上に座り座禅を開始。
耳をすませるまでもない。耳元で「ブォーっ」という勢いのある音がなっている。業務用の巨大な扇風機。羽が派手なオレンジで、あまり一般家庭ましては寺には似つかわしくない。
ありがたいことに、この機械音が不思議と集中力を高めてくれる。人によっては邪魔になるかもしれない。扇風機のおかげか坐禅堂も快適な風が吹く。
座禅は一セット40分。一柱という。一柱終わると、歩きながら行う座禅を行う。その後、もう一注した。
坐禅中はお坊さんが警策(きょうさく)という木の棒をもち歩き、こちらが合掌して頼むと、肩をピシャリと叩いてくれる。こちらから頼まない限り叩かれることはない。厳しいお寺は、頼まなくても叩いてくる。
久しぶりに長時間座禅をした。とはいえ、短い時間の座禅を毎日やっていることが理由か、苦悶するほどつらくなることはなかった。座禅は厳しくはないが、しっかりやってくれて好感を持った。暑い時期に快適な扇風機があるのもありがたい。
座禅や講座など合間合間に、休憩時間がある。時間はまちまちだが、長い時は30分以上。部屋で自由に過ごすことができ、スマホをいじったり、昼寝をしたり、本を読んだり、会話を楽しんだり自由に過ごすことができる。
お寺の生活だからといって入浴できないわけではない。しっかりお風呂の時間もある。流石に内風呂はないが、大浴場で汚れを落とすことができる。シャワーも完備されている。
体重計が脱衣所にあったので測った。「うわっ500グラム減っている」初日でもう体重が減っていた。にもかかわらずお腹は減っていない。むしろお腹いっぱいだ。
消灯時間は午後9時。日付がまたぐまで起きている僕にとっては、そんな時間に寝れるはずもなかった。明かりがもれないよう布団にくるまってスマホいじり。まわりの人も寝れない人が多いのか、寝息はなかなか聞こえてこなかった。
23時近くなるといびきをかきだす人がでてくる。不思議なもので、大いびきをかいている人がいると、それに反応してか、いびきを聞こえないよう体制を変えて寝ようとする。
その物音でいびきを書いていた人が起きる。いびきが止むと今度は別の人がいびきをかき出す。またとまり、今度は別の人がいびきをかく。そんなことが朝まで繰り返された。早く寝た人が断然有利だ。
二日目
朝4時30分。遠くの方から「ドタッ、ドタッ」と全速力で誰かが走る足音と、「リンッ、リンッ、リンッ」と高音の金属音が、同時に鳴り響き、部屋に向かって迫ってくる。
お寺ではじめて過ごす人はびっくりするだろう。頭に白色のタオルをバンダナ代わりに巻いた僧侶が、全速力で鈴を持って寺の中を走り回る。どんなに朝が弱い人間でも強制的に起きる。
僕は僧侶が走りだす前に起きていた。眠りは浅かったが、座禅した効果が理由なのか、爽快な朝を迎えることができた。
爽快な朝を迎えたとしても、朝一番全力で寺の中を走り回る元気はない。ビーチフラッグをするがごとく、いきなり起きて全力で走れる僧侶を礼讃した。
後々聞くと、いきなりダッシュしているわけではなかった。
朝目覚まし代わりに全力で走る僧侶は、その役目を一人で行っている。朝の2時には起きて、寺の窓を開けたり、山門を開けたり、朝の準備をし、それから全力で走る。
この僧侶が寝坊しないように起こす役目をする人もいる。夜警備をしていた僧侶が寝る前に入れ替わりで起こすのだ。
朝、全力で走る僧侶も、いきなり起きて全力で走ることは難しいのだろう。
布団をたたみ、朝の用意をし、一日のスタートは朝のお勤めからはじまる。ここで、僕はちょっとした事件を起こしてしまった。
朝のお勤めは大祖堂で行われる。行ってびっくり。コンサートホールと思えるぐらいの大きさ。畳にして約1000畳あるという。入り口にはパイプ椅子が並んでいて、朝早くから参拝に来ている人が数人座っている。修行体験者一行は、パイプ椅子よりだいぶ先。コンサート会場でいうアリーナ席にあたる特等席の、赤い絨毯の上に座った。
お堂の左右の上にびっくりするものが。なんと、大きな白色のスクリーンがある。入り口上の方から朝のお勤め全体をカメラで撮影し、スクリーンに映るようにしているのだ。コンサート会場そのもののようだ。
お堂に入場した僧侶が座りお経を読みはじめる。一斉に読み上げるお経という重低音。理由はわからないが心地よい。自然とリラックスしてくる。知らないお経がおおいなか、聞いたことがあるお経を聞くと、ついつい自分でも口ずさんでしまう。コンサートで知っている曲を聞いたら自分でも歌いだしてしまうのと同じだ。
可能であれば教本を貸しだしてほしかった。お坊さんと一緒にお経を読みあげ大合唱。より一体感がます。
お堂の影から、若い僧侶が分厚いお経を持って、すり足かつ小走りで出てくる。ベテランの僧侶の前に教本を起き去っていく。
ただ、行って帰るだけだ。その動き一つ一つまったくの無駄がない。その所作、作法がなぜか美しい。無駄を省き、最低限の動作をし、見えないものに畏怖の念をもつ。それだけで、人は美しいくみえるものだとこのとき思った。
僧侶から立ち上がるように手で指示があった。全員お焼香をさせてくれるようだ。両サイドに数十人のお坊さんがいる真ん中を分け入り、お堂の真ん前でお焼香をする。コンサート会場でファンをステージに上げてくれるようなものだ。
お焼香に時間がかかるため、すこしずつ列が進んでいった。その間、いろいろなことを考えていた。
よく見ると、どの僧侶もイケメンばかりだ。不思議だった。階級の差によって服の色が違うが、形はほぼ一緒。髪型はもちろん坊主。ほとんど差がないはずだ。ずっと考えていた。
僧侶の中に人がイケメンになる理由があるかもしれないからだ。
その時気づいた。髪の毛がないこと。坊主であることが、イケメンである理由の一つではないか。
一見、髪の毛がないということは、デメリットに思える。髪の毛があれば、髪の毛を活かし、流行りのイケメンな髪型にすることができる。ほとんどの男は、髪の毛を活かすことはせずに放置したまま。手入れもせずにいると不潔感がますばかり。
ベタベタの髪、中途半端に染めた髪、不自然な髪型、ハゲを隠すような髪型。メリットにすることができるのに活かさないということ。それは、才能があるのに使わないのと一緒ではないか。
考え方を変えると、髪の毛がないということは、メリットにもデメリットにもならない。余計なものがないぶん清潔感が増すことに気づいた。
すべての僧侶から不潔感がない。清潔そのものだ。
全員が同じ服を着ていることも理由の一つだ。。それは、だれからも個を感じさせないことだ。我といったほうがいいかもしれない。すべてのお坊さんから我をかんじさせない。よけいな個性が感じられない。
同じ服、同じ髪型、同じような所作作法。
一般に生きる僕らは、足して、足して、より上を目指す。
僧侶はいらないものを削ぎ落とし、削って、削って、そして美しいものが残ったのではないか。
僧侶イケメンパラダイス説がここに完成した。朝のお勤めは、イケメンだらけのコンサートそのものだ。
また、別の法則にも気がついた。坊さん黒縁メガネ多すぎる説。
どういうわけか、黒縁メガネを掛けている僧侶が多い。しかも若い人に特に多い。階級が上っぽい色違いの服を着ている人や、高齢の人は細いフレームのメガネを掛けていた。
そんな、新人僧侶黒縁メガネ基本説について熟慮していると、突然、彫りの深い若いイケメン僧侶に声をかけられた。
大事なことを考えている途中、これからお焼香する時に何事かと考えていると、
「靴下はありますか?」と聞かれた。
僕はその時素足だった。正直に「靴下、履いていません」と答えた。
若い彫りが深いイケメン僧侶は、「わかりました。こちらでお待ちください」と言い、お堂の端を通り奥へ消えていった。列から一旦外れ僧侶が帰ってくるのを待った。
朝のお勤めに行く途中、「素足で行くのは失礼になるよ」と別の部屋の人に指摘されていた。部屋からお堂までかなりの距離がある。戻ろうと考えたが、一度部屋に戻ると、道に迷って戻れないと判断。そのまま素足できてしまったのだ。
彫りの深いイケメン僧侶が帰ってくるなり、「これをお使いください」と短い靴下を渡された。お焼香の列の最後尾は、だいぶ先まで進んでしまった。急いでその靴下を履いた。
履いた瞬間。「ジュワッ」と音が聞こえた気がした。靴下が湿っていて、湿った水分が肌の中に一気に浸透し、「ジュワッ」という音になったのだ。
若い僧侶に促されるままお焼香の最後尾につく。その間、この若い僧侶の脱ぎたての靴下なのか、それとも、同じように靴下を履いてこない人用に、どこかに置きっぱなしになっていた靴下なのか考えた。
わからない。聞くわけにも行かない。自分が完全に悪いからだ。
お焼香に心を込めることはできなかった。いや、だれよりも心を込めたのかもしれない。ずっと心の中で、水虫にならないようにと願っていた。
お焼香が終わりすぐ、靴下をお返しした。きっと彫りの深いイケメン僧侶も、「あの靴下忘れたやつ、水虫じゃないよな」と心配しているかもしれない。
たくさん修行したが、なんどやってもなれないことがある。写経だ。
茶室を大きくしたような部屋だった。二人がけの椅子机が横並びに2つづつ並び、40人近い人間が全員座っても、余裕がある広い部屋。正面にある床の間には、名品と思しき茶碗が置いてある。机には墨、筆、紙があり、紙の下に般若心経の原本がある。上からうつしていくタイプの写経だ。
字が汚い僕にとっては、写経は苦行そのも。どんなにがんばっても、どんない集中しても、汚い字になる。
だれよりも早く書いて、だれよりも早く部屋にもどり休憩。辛かったら休んでもいいのだ。座禅についても、必ずしも参加しなくてはいけないこもない。辛かったら休める。総持寺の宿泊坐禅会はそれが許されるのだ。
座禅、講座、食事、入浴を終えて、布団に入る。あっという間に最後の夜になった。郷に入れば郷に従えではないが、自然と総持寺の生活リズムに適合してくる。朝9時に布団に入ったら疲れもあったのか、あっという間に眠りについた。
最終日。朝のお勤めはしっかり靴下を履いた。五本指ソックス、色は灰色、おまけで穴開きの靴下。みんな真っ白の靴下を履いているためかかなり目立つ。
「この靴下で失礼になりませんか?」と僧侶に聞いた。
「たぶん、大丈夫だと思います」と僧侶はいった。きっと本当はだめなんだろう。
朝のお勤めは昨日と同様に進み、お焼香は問題なくおわった。今回は心を込めてお焼香をすることができた。
お勤めの後、総持寺の中にある禅カフェ茶房おかげやがオープンしていた。タイミング悪く臨時休業と重なり、最終日だけ立ち寄ることができた。これを待っていたと言わんばかりに、宿泊座禅の人がモーニングコーヒーを注文していた。「自由すぎる!」臨時休業していなかったら僕も毎日コーヒーを飲んでいた。
最後の精進料理は、いつもどうりの精進料理。最初から最後まで全力だった。精進料理を食べ続けたおかげなのか、家に帰って体重計に乗ると1キロと少し痩せていた。精進料理をお腹いっぱい食べて、寺でリフレッシュしただけでダイエットになってしまった。これから、お寺で過ごすだけダイエットが流行るかもしれない。
最後の座禅を終えて、最後の挨拶をし、宿泊坐禅会を終えた。驚くべきことは、最後に部屋の掃除をしようと意気込んでいたが、掃除をすることもなかった。
希望者は最後に掃除時の案内をしてもらえる。
総持寺の境内を出ると、まだまだ暑い。汗が吹き出してきた。汗をかくのは久しぶり。なぜなら、総持寺の修行がはじまり終わるまで汗一かくことはなかった。
部屋は冷房、坐禅中は扇風機、風通しが良い作りのためか自然の風が入ってきて、移動中も汗をかくことはなかった。お寺の修行というと作務という名の掃除をやるイメージがあるが、一切作務をすることはなかった。
あくまで、修行者でもあり、お客様でもあるのだ。
二日目の夜の講座の終わりに感想を教えてほしいと言われて、こんな感想を言う人がいた。
「毎日、美味しい精進料理を食べれて不満はないです。でも、お坊さんと同じような食事もしたかった」
また、別の人が、「昔は総持寺の長い廊下をみんなで掃除していたようなので、思い出づくりにやりたかった」
その質問に対しての回答が、「だれにでも、どんな人にでも、幅広い人達に、修行をしてもらえるようにしている」だった。
僧侶と同じような一汁一菜の食事をだされ、それが修行中ずっと続いたら不満が出るかもしれない。僧侶としてではなく、お客様として振る舞い、総持寺で有名な精進料理を全力で出せば不満に思う人はいない。僧侶と同じような食事を食べたい人にとっては不満だが。
総持寺の廊下は164メートルある。これをなん往復もしてピカピカに磨くことは、体力がある人でも体に応える。高齢の人や、障害がある人には厳しい。だれにでも、どんな人にでも、ということであるのであれば、やらせることは厳しい。
反面、総持寺にしかこの長い廊下はない。やりたい人にだけやらせるのは面白い。
「だれにでも、どんな人にでも、幅広い人達に、修行をしてもらえるようにしている」という言葉に嘘はない。
座禅で足を組むことが難しかったら、組み替えることもできるし、椅子で座禅をすることもできる。参加しないで休むこともできる。
部屋でスマートフォン使いたかったら使えるし、パソコンを利用したければ利用もできる。若い人にはありがたい。
総持寺での修行生活を一言で表すとこうなる。
「だれでも、どんな人でも、楽しんで修行できる」
やるべきことはしっかりやり、やらなくていい時はしっかり休める。いつも緊張していなくてもいい。緊張と弛緩がしっかりわかれている。無理する必要もない。
どう考えても男社会だった昔の修行体験。どこかで考え方がかわったのだろう。女性が昔に比べて増えたこと。これは、考え方が変えた結果の一つではないだろうか。
総持寺の修行体験がやさしすぎると思う人もいる。そんな人はより厳しい修行寺を選べばいい。厳しい場所はいくらでもある。その人のレベルに合わせて場を変えればいいだけだ。
総持寺は今のままで良い。これからもっと良くなることもできる。
一つ残念なことは若い10代、20代の修行体験を希望する人がいなかったこと。若い世代に仏法の火が灯らないと、いつか消えてなくなる時がくる。
総持寺のみ霊祭り盆踊り大会を見ると、それもたんなる杞憂にすぎないのかもしれない。
若い修行僧が激しく盛り上がり、めちゃめちゃはしゃいでいる。お祭りにくるお客さんも若い人が多い。
若い人が若い人を呼び込む方法を知っている。
総持寺は今のままでも良い。もっとよくなることもできる。若い人にまかせて新しい方法で人を呼び込む方法を模索するのも一つの方法だろう。
それはロウソクの火を動画にして投稿することかもしれない。
それはロウソクの火をホログラムにして投影することかもしれない。
やり方は変わっても、ロウソクについた火そのものに変化はない。うつし方がかわるだけだ。
総持寺は、だれでもどんな人でも、楽しんで修行できる。また修行したくなる天国のようなお寺だった。
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